金性寺の由来
当寺の創建は古く、小高城主第十五代相馬盛胤公夫人の掛田御前(掛田城主掛田義宗の娘)は永禄十二年(一五六九)十月二十二日逝去。
盛胤公が夫人「金室妙仲大禅定尼」の冥福を祈るため、同年十二月小高村堂前(現在の小高町小高字堂前)に錦繍寺を建て、霊牌を安置したことによる。
その後金室山金性寺に改める。
慶長六年(一六〇一)
盛胤公中村城にて逝去、中村真光寺(現在の円応寺)に埋葬する。
明暦四年(一六五八)
勝胤(後の忠胤)公により寺領十九石四斗の証印を受ける。後に二十二石三斗二升になる。
安永三年(一七七四)
小高城址に妙見新尊が祭祀され、以来約百年の間金性寺は別当寺となる。
天保十一年(一八四〇)
藩主の命により、小高城址に本堂、庫裡等を再建し、堂前より移る。
文久三年(一八六三)
金性寺座主知印僧都、寺子屋を開き文教興隆に貢献する。
慶応四年(一八六八)
戊辰戦争の時、金性寺の知印僧都外二名は、藩主の命を受け浪江の官軍の陣営に赴き、円満終局の糸口をつくる。
明治五年(一八七二)
神仏分離令により、妙見尊を金性寺に祀る。
明治六年(一八七三)
学制発布により、古城一番地の金性寺を校舎にあて、小高小学校が創立される。
明治九年(一八七六)
校舎火災により、寺は小屋木字広畑の難波山天王寺(現在の武勇神社)に移る。
明治二十二年(一八八九)
旧小高郷陣屋跡の南小高字関場十六番地(現在地)に本堂、庫裡、二十三夜堂を建立し、天王寺より移る。
昭和三十九年(一九六四)
十二月小高小学校の火災により、本堂類焼し、翌年十二月再建する。
昭和六十年(一九八五)
北国八十八ヶ所霊場第二十番札所となる。
平成四年(一九九二)
浜三郡七福神の大黒天霊場となる。
平成六年(一九九四)
福島県八十八ヶ所霊場第三十八番札所となる。
平成十二年(二〇〇〇)
鐘楼門を建て替え、落慶式を行う。
歴代住職
中興一世 隆仙 二世 智仙 三世 隆明 四世 章仙
五世 隆泰 六世 隆々 七世 教仙 八世 啓寿